しかし、亜季は夜叉王が案じたとおり、あれ以来心の病で床についてしまったのである。
食べる物も口にせず、目覚めれば涙ぐんで、あの明るく美しかった亜季が見違えるほどやつれてしまっていた。
藤丸がお粥を運んでくると、うっすらと微笑んで一口二口は食べるのだが、それ以上は受け付けなかった。

「亜季さま、しっかりなさってください!」


藤丸はそんな亜季を見るにしのびず、つい叫んでしまう。

「もし姫君が戻ってきた時に、母親であるあなたがそんな状態でどうするのですか?!」

言いながら、少年の目に涙が溢れていた。

(亜季さま、あれは嘘だったのですか?!
私に余計な心配をかけたくないとおっしゃったのは・・・)

その思いが通じたのか、眠っていたかのように見えた亜季はうっすらと目を開けた。


「亜季さま・・・!」

亜季はふとんの中からそっと手を出し、傍らでじっと自分を案じている少年の手を握った。

「・・・ごめんね・・・藤丸・・・。私の方が約束・・・破っちゃった・・・。
ダメね・・・こんなんじゃあ・・・いい母親にはなれないわ・・・ね」

「いいえ!いいえ!そんなコトありません!」

かぶりを振って、藤丸は亜季の手を握り締めた。

「いいコね・・・ありがとう・・・。あなたのおかげでどんなに励まされたかしれないわ・・・」
「だったら、早くよくなって下さい! お礼なんていりません!」

亜季はふふっと笑った。
それはまるで蜉蝣を思わせる微笑だった。

「赤ちゃんが大きくなったら、藤丸に遊んでもらうわ・・・
きっと、いいお兄ちゃんになるわね・・・」
「・・・・」

その何気ない言葉が、今はとても辛く感じられ、藤丸は俯いた。
未だに姫君の行方が分からないなんて・・・

「藤丸・・・?」
「は、はい」
「・・・きっと・・・帰ってくるわね?」
「ええ!必ず!」
「藤丸・・・あのコが帰ってきたら・・・妹のよう・・・大切にしてね・・・。
そして、私のコトバ・・・伝えちょうだい・・『ごめん・・・ね』って・・・」

そこまで言うと、疲れてしまったのか、亜季はすぅ〜っと眠ってしまったようだった。

「亜季さま?」

一瞬悪い予感がして、少年は思わず亜季の身に耳をあてた。が、

トクン・・・トクン・・・

ちゃんと生命の音が聞こえて、ホッと息をついた。

(よかった・・・。逝ってしまったのかと・・・)

・・・・しかし、藤丸が亜季のコトバを聞いたのは、これが最期だったのである。



         ◇       ◇       ◇


それは、風の強い日だった。

「亜季さまー!亜季さまーっ!」

少年はありったけの声で叫んだ。
すでにこの世にはいない美しい女性の名を。

走って、走って・・・
風の吹く野をかけながら。

・・・たしか、初めて出会った時もこんな風の強い日だった。
そう、あれは父が亡くなった時・・・
野原で一人、たたずんでいた自分に、優しげな声がそっとおりたのだった。

『・・・そうだったの・・・。でもね、新しい出会いがきっとあるわ。これからたくさんの。
そして、今日私とあなたは出会ったわ。これってとっても素晴らしいコトじゃない?』

そう言ったあの人も、今は風と化して・・・
風は人の魂を運んでいってしまうのだろうか・・・




・・・・・それでも、時は過ぎてゆく。
少年は・・・・涙をふいた。






《其の五》


あれから。
いくつもの春がこの山をかけていった。

風が吹く・・・
         ・・・昔と変わらず・・・・

一人の青年が、木の上で幹にもたれながら遠くの景色を見やっていた。

(昔とちっと変わらない・・・。変わったのは・・・)

と、その時。

「おーい、藤丸〜! 殿がお呼びだぞ〜!!」

不意に邸の方から、自分を呼ぶ声が聞こえた。

「ああ、分かった。今行く!」

藤丸と呼ばれた青年はそう答えると、身軽にスタッと地に下りて邸に向かって走っていく。
そんな彼を見て、鬼たちは皆口々に言い合った。

「見ろよ、藤丸だぜ。殿のお呼びだとよ。全く立派になっちまって・・・」
「変わったもんだよ、あのコもさ。一時はどうなることかと思ったけど」
「ああ、亜季さまが亡くなった時だろ? あたしは見てて可哀想なぐらいだったよ。
あんなに慕ってたんだもんねぇ・・・」
「あいつ、強くなったな」
「ああ、肉親を失うと強くなるもんさ。あのコにとって亜季さまは肉親同然だったんだ・・・」
「これで、姫さまさえ戻ればねえ・・・」

彼らは、そう言ってはお互いうなづきあうのだった。



           ◇        ◇        ◇


「殿、お呼びでしょうか」
「うむ、入れ」

青年は部屋の中に入ると、主の前に控えた。
今日の夜叉王は心なしか嬉しそうに見える。
藤丸が妙に思っていると、さっそく夜叉王は話し始めた。

「今日、お前を呼んだのは他でもない。娘のコトだ」
「え・・・?!」

藤丸の顔に初めて驚きの表情が浮かんだ。

「そ、それでは・・・」
「うむ。ようやく見つかったのだよ。亜季の忘れ形見が・・・」
「そ、それは確かなのですか!」

青年は信じられない・・・というような顔をし、夜叉王はそれを見てうなづいた。

「間違いはあるまい。確かな情報だ。すでに何人か偵察にやった。
ここから遠いが、ある村に亜季によく似た娘がいると知らされてな。年も相応。しかも極め付けが、その娘には角がある」
「!!」
「どうも人間に拾われていたらしい。渡りわたって、今まで寺の和尚に育てられていたとか。だが、その和尚も近年亡くなったらしく、今は一人で村はずれの小屋で住んでいるそうだ。・・・不憫な子よ。
だが、とうとう見つけたのだ。わしの喜び、分かるな?」
「はい!」

藤丸の輝くような瞳に夜叉王はうなづき、そして突然身を乗り出した。

「で、たっての願い、お前に茜を迎えに行って欲しいのだ」
「茜・・・」
「ああ、その娘の名だ。和尚がつけたものらしい。
・・・それより、どうだ? わしはお前に行って欲しいのだが・・・」

それは命令ではなかった。
藤丸は、
しばらくじっと夜叉王の顔を見つめ、そして・・・深々と頭をさげたのである。

「有難き・・・仰せにございます・・・」

それを聞き、夜叉王は安堵の息をもらした。

「そうか・・・いや礼を言うのはこちらだ。これでわしもやっと亜季に顔向けができるというもの。だが、気をつけろよ、藤丸」
「は?」

藤丸はキョトンと顔を上げた。
いったい何を気をつけろというのか。
そんな彼の心情を読み取ったかのように、夜叉王は笑った。

「茜はかなりお転婆で気が強いらしい。偵察に行った部下どもが石を投げられたそうだ。ハハハ・・・いったい誰に似たのやら・・・。だが、なかなか頼もしいな。やはり元気なのが一番ではないか、なあ?」
「本当に・・・」

藤丸が夜叉王の笑い声を聞くのは久しぶりのように思った。
また、この邸がにぎやかになる・・・
そんな気がしたのである。

「それにしても、あれからずいぶん時がたった・・・」

夜叉王は昔を思い出しているのだろう。
そのつぶやきに藤丸もしばし思いを遠くに馳せた。
が、それは夜叉王のふふっという笑い声で途切れた。

「?」
「いや、なに。今ふと昔のお前を思い出してな」
「え・・・?」
「お前も昔は手に負えないわんぱく坊主で・・・それがよくここまで立派に育ったものよと感心しておったのだ」

それを聞き、藤丸は赤くなった。今となっては珍しいことである。

「・・・殿もお人が悪いですね」
「そうか?」

と言いつつ、にやにやしていた夜叉王であったが、急に真顔になった。

「では、頼んだぞ。藤丸」
「は!」






・・・・こうして、藤丸は出会ったのである。
幼き日の思い出の女性ー亜季の面影を持つ少女に。

(もっとも雰囲気はずいぶん違うけれど・・・)

彼はいつか伝えようと思った。
風の吹く中、逝ってしまった亜季のことを。
そして、亜季の残した言葉を・・・

「新しい出会いがきっとあるわ。
これって素敵なことじゃない?」

だが、今はとりあえずにっこりと微笑みながら言ったのである。

「茜さまですね。お迎えにあがりました」


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