−風の言葉


あるところのある山には、鬼たちが住んでいます。
その鬼たちにも人間と同じように毎日さまざまなドラマがあるのです。
これは、今は夜叉王の側近である藤丸の少年時代の物語−


           
◇     ◇     ◇



《其の一》           

「亜季さまぁ、亜季さまぁ」

山のてっぺんにあるお邸の庭先に、人間で言えば八、九歳ぐらいの少年が、息を切らしながら駆け込んできた。
その声を聞きつけてか、邸の中から一人の美しい女性が現れた。

「どうしたの? 藤丸。
まあ、そんなに汗をかいて・・・」

けれども少年は気にもせず、あらたまって女性の前に立つと、

「亜季さま、ほらっ!」

と両手を差し出した。
その手には色とりどりの野の花がしっかりと握られていて・・・
『亜季』と呼ばれた女性は、この贈り物に目を輝かせた。

「まあ!これを私に・・・?」

嬉しそうに微笑む彼女を見て、少年は満足そうに笑った。
それは、風が二人の間をやさしく包み込むように流れていくおだやかな春の日のこと−


そうして、その様子はいつしか鬼たちの噂になっていたのである。
「ほら、ごらんよ。また藤丸が亜季さまに会いにいってるよ」
「ああ、全く。あのやんちゃ坊主が亜季さまだけには愛想がいいんだからな」
「まあ、分からないでもないがな。淋しいんだろ。
母親はあの子を産むとすぐ死んじまったし、父親は毒にあたって死ぬなんて全く不憫な子さ」
「だから、亜季さまと同じなのさ」
「同じ?」
「人間である亜季さまをうちの夜叉王さまが見初めてきなさったんだろう?
いくら好きあった者どうしとはいえ、亜季さまも故郷を捨ててきたんだ。
この山では一人ぼっちなのさ」
「ああ、だから・・・」
「そう、似たものどうしなんだよ。あの二人はな・・・」



            ◇    ◇    ◇



「こら〜っ!! どろぼ〜!!」

お邸の厨房から怒声が響いたと思うと、中から小さな影がすばやく飛び出してきた。
次いで、炊事役らしい太った女が慌しく出てきて辺りを見渡したが、後の祭りだったらしい。
犯人の姿はどこにもいない。

「・・・ったくもう!しょうのない悪ガキなんだから・・・!」

不機嫌そうにそうつぶやいて、彼女はまた中へ入ってしまった。
すると、それを見届けたかのように、向かいの倉の陰から、ヒョイと小さな鬼が現れた。
辺りををきょろきょろと見回している様子はいかにも子供なのだが、その澄んだ目はどこか大人びている・・・そんな少年だった。
彼は誰もいないことを確かめると、

「へへっ、ちょろいもんだな」

と言いつつ、先ほど失敬してきた餅をガブリとほおばった。
と、その時である。

「とんでもない奴だな、お前は。亜季の前とは大違いだ」
「!」

不意に背後から声がし、少年はもう少しで餅を喉をつまらせるところだった。

「誰だっ!」

勢いよく誰何した彼であったが、振り向いて相手を見た途端、ぐっと声をつまらせた。
それはこの山の誰もが知っている新しいここの統治者−夜叉王その人であった。

「藤丸。そんなコトでは亜季が悲しむぞ」

夜叉王がそう言うと、最初はその威圧感に圧倒されていた少年−藤丸は、徐々に落ち着いてきたのか夜叉王の顔を見据えるとこう言った。

「大きなお世話です、夜叉王さま!」

そんな少年の態度に、夜叉王は苦笑した。

「藤丸、お前は何をそう片意地を張っておるのだ?
第一なぜわしがお前の言う『大きな世話』をしにわざわざやってきたと思う?・・・亜季がお前のコトを案じていたからだぞ」
「え・・・?」

思いがけない言葉に少年は動揺し、それを見計らったように夜叉王は言葉を続けた。

「ところで、お前は知っていたか?
お前の父がわしの良き友人であったコトを」
「!」

少年にとってそれは初耳だった。
確かに父は夜叉王に仕えていたが、友人というほど親しい間柄であったかどうか・・・。
いや、そういえば父はいつも酒を飲みながら夜叉王の話を嬉しそうにしていなかったか・・・?

「そうか、お前の父はかねがねわしにお前のコトを頼んでいた。
亡くなる前の日もわしの手をとって、お前が一人前になるまで見守ってやってくれと言っておった。
それなのに、お前ときたら、迎えをよこしに行ったら一人で飛び出したというではないか。そうこうしているうちに、お前は亜季と知り合っていたのだな。
・・・藤丸。これも何かの縁かもしれぬ。どうだ、わしのところへ来ぬか?」
「!」

今まで黙って聞いていた藤丸は、思わぬ申し出にハッと顔をあげた。

「夜叉王さまの・・・もとへ・・・?」
「ああ。そうすれば、きっと亜季も喜ぶぞ」
「ホント・・・に?」

まだ半信半疑のような顔であったが、既に藤丸は次の言葉に引き付けられていたのである。

「ああ。ただし、お前はあらゆるコトを学ばねばならんぞ。立派な父親の後継ぎになるためにはな・・・。そうして、わしの右腕になってくれると有難いのだが・・・。
どうだ、それが出来るか?」
「出来ます!」

間入れず、少年はきっぱりと言い切った。



《其の二》



こうして、藤丸は夜叉王に引き取られ、毎日修行に励むこととなった。
里の人間たちと同じように暮らしているとはいえ、鬼たちのなかでもある者は夜叉王の側近となるために、あるいは師となるために自らを磨かねばならない。
いや、それよりも、人間よりはるかに力を持つ者は自分の力を使いこなす必要があったのである。


そして藤丸にはもう一つ理由があった。
少しでもあの女のそばにいられたら・・・

「亜季さま! オレ・・・じゃない、私は今日師匠にほめてもらいました!」
「まあ、ほんと? えらいわね、将来が楽しみだわ。
夜叉王の力になってね」

暇を見つけてはこの美しい女性と会うことが、少年の唯一の楽しみでもあったのだ。
亜季にしても、自分を慕ってくれるこの少年の来訪を心から楽しみにしていた。
語り合う二人の姿はまるで本当の家族のように、あるいは年の離れた姉弟のように微笑ましかった。
やさしく話に答える彼女に、少年は見たことのない母の面影を重ねていたのかもしれない。

しかし、彼はふと思うことがあった。

(亜季さまは寂しいんじゃないだろうか?)

藤丸が知っている亜季はいつも微笑んでいて、夜叉王と睦まじく暮らしている。
が、少年の耳にも噂が入ってきていた。
亜季がこの山へ来た時、人間を嫌う一部の鬼たちが反対して、今でさえ肩身の狭い思いをしているのだとか、亜季は夜になると独り『故郷へ帰りたい』と言って泣いているのだとか・・・
それらをすべて鵜呑みにするわけではなかったが、時折見せる亜季の淋しげな顔に少年の心は痛んだ。
もしかすると、それを考えて夜叉王は自分を亜季のそばにおいたのかもしれない、とも思った。
しかし、ある日思い切って尋ねてみたのである。

「亜季さま、淋しくありませんか?」
「ど、どうして?」

突然のこの問いに亜季はとまどった。
しかし、藤丸は大真面目である。
亜季は少年の顔をマジマジと見つめ、そしてフッと視線を和らげた。

「もしかして・・・噂のコト気にしているの?」

藤丸は答えなかった。が、すぐに意を決したように顔をあげた。

「それだけじゃありません。
だって、亜季さまは時々淋しそうな顔をするから・・・だから・・・」

亜季は・・・にっこりと笑った。

「・・・ごめんなさいね。あなたにまで心配かけちゃって・・・
でも、何でもないのよ、ねっ!」
「それは・・・ウソです!」
「なぜ? 考えてもみて。私には夜叉王がいる。とっても大切にしてくれるわ。山の人たちも親切な人ばかりだし・・・それに藤丸だっているでしょ?あなたにはとっても感謝しているのよ。ホントよ?」
「・・・・・・・」
「それに、これは内緒だったのだけど・・・」

と、言いかける亜季の顔はほんのり紅色に染まっている。

「?」

不思議そうな顔をしている藤丸の耳元に、亜季はそっと囁いた。

「!」

途端少年は目を大きく見開き、亜季の顔を見返した。
それを受けて、亜季はにっこりと微笑みながらうなづいた。

「だからね、私が今淋しいなんてことある? ないでしょう?
だから、大丈夫。余計な心配はしないと約束してほしいわ、ね?」
「・・・・・」
「返事は?」
「あ、は、はい!」

少年のなかばやけっぱちのようなその返事に、亜季はクスリと笑った。

その時。ザァーーーッと風が吹き、亜季の長い髪をなでていった。
頬にかかった髪を手でかきあげながら、亜季は遠くを見た。
そして、少年はそんな彼女を眩しそうに見上げた。

ずっとこんな日々が続けばいい・・・

それは少年のささやかな願いであった。


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