〜遠い異国の佳人〜



夕霧が部屋で帰国の準備をしていると
廊下からバタバタ足音が聞こえ扉の前で止まった。

そうして一拍後―
ドンドンと扉を叩かれ、夕霧は美しい眉をひそめる。

(いったい何事か、騒がしい・・・)

そう思ったが、すぐに扉をあけるのも不用意だ。
夕霧はためらいながらも、慎重にいつものように声音を変えて誰何する。

「どなたどす?」

すると、
「夕霧!?私――」
「千尋ちゃん!?」
扉の向こうの人物が名乗る前に
夕霧は声をあげ、素早く扉を開けた。

「どうしたん?千尋ちゃん、こんなとこ来るなんてびっくりやわ」

肩で息をしながら立ちつくす少女を見て、夕霧は驚きながらも
彼女の背後を確認し、首をかしげた。

女王の身で
まさか一人でここまで来たのではあるまいか。
そんなことを夕霧が案じているのも知らずに

千尋は夕霧の両手を強く握ったかと思うと、言い放った。

「驚いたのはこっちだよ!どうして黙ってたの?
せっかく仲良くなれたのに、黙って帰るなんてひどいよ、夕霧。
それもこんなに早く・・・ねえ、もう少しここにいてはいけないの?!」

その言葉に、夕霧は思わず絶句する。
そうして目を細めながら、その手をそっと握り返した。

「――堪忍なあ、千尋ちゃん。これもお勤めなんや。
うちも千尋ちゃんがこれから作る国を見てみたいと思うてる。
けど、千尋ちゃんにも捨てられない大事なお役目があるように
うちにも大事な役目があるんよ」

それに長くおればおるほど、別れがつらなるしなあ・・・

そう寂しくつぶやく夕霧に、千尋は返す言葉がなかった。
夕霧が言ったことは的を射ている。
それでも、夕霧はずっと一緒に過ごしてきた大切な人だ。
まだまだ相談に乗ってほしいこともあるし、話したいこともたくさんある。
それなのにもう帰ってしまうなんて・・・淋しすぎる。

しょんぼりと俯く千尋に、夕霧は困ったように小さく息をつき
千尋の頭に手を載せて

「ほな、千尋ちゃん。・・・あと少しだけ、お話しよか」

そう言うと、千尋はハッと顔をあげて目を輝かせた。




       ◇    ◇    ◇




千尋は夕霧に手を引かれ、部屋の長椅子に腰をかけた。
そうしてその横に夕霧が寄り添うように座ると

シャラン・・・

その拍子に夕霧の長い髪と簪が揺れた。

(いつ見ても夕霧は綺麗だなあ・・・)

村で出会ったばかりの頃は、全くもって疑う余地もなかったけれど
こうして正体を知った今でも、言われなければわからないぐらい
夕霧の変装は美しく完璧だ。
男でも女でも違和感がないのはきっと元々の造作がいいからだろう。

思わず見とれてしまった千尋だが、ハタと気付いたことには。

「そういえば、どうして夕霧は今もそんな格好してるの?
もう、女装しなくてもいいでしょう?」

千尋が尋ねると、夕霧はにっこり笑った。

「うふふ、それはそうなんやけど、なんや慣れてしもうたみたいで
こっちのほうが気が楽なんよ」

「ええ〜?!私、夕霧の男装姿もう一度見たかったのに・・・
文官の正装もよかったけど、私服姿もちょっと、
ううん、かなり期待してたんだけどなあ」

残念そうに千尋がボヤくと、夕霧はコロコロと笑った。

「ホンマに千尋ちゃんは・・・心をくすぐるお人やなあ・・・
まあ、うちがええ男やというのはわかってもらえたと思うけど
でも、この格好は今でもいろいろと便利なこともあるんどすえ」
「便利なこと?」

千尋が首をかしげると、夕霧は楽しそうに頷いた。

「例えば、部屋で千尋ちゃんと二人きりでおっても
こうやって肩を並べて座ってても
女同士やと思うて、周りから微笑ましく映るだけやろ。
千尋ちゃんはこの国にとって大事なお人やから
ホンマやったら近づくこともできへんし。それに・・・」
「それに?」

千尋が先をうながすと、首を振って夕霧は笑った。

「ううん、なんでもあらへん。なんや忘れてしもたみたい」
「ええ?もう、夕霧ったら・・・私、真面目に聞いていたんだよ?」
「うふふ、堪忍なあ」

と、そこで言葉を切った夕霧は
ふと思いだしたように声の調子を変えて千尋に向かい合った。

「・・・それはそうと、ずっと気になってたんやけど
千尋ちゃんはうちが男やって言った時も
あまり驚かへんかったね」

「ええ?そんなことないよ。びっくりしたに決まってるよ!」

「ふうん?どうもそうは見えへんかったけど・・・
あんまり平然としてたから、ホンマはうち、がっかりしてたんやで。
千尋ちゃんにとって、うちはどうでもいい奴やったんか〜って」

「そ、そんなことないって!何言ってるの?夕霧ったら」

一体何を言い出すのかと慌てふためく千尋をよそに
夕霧はどこ吹く風といった風情でさらに言葉を続ける。

「そうそう、それでその後何回か会っても、
千尋ちゃんの態度はいつもとち〜っとも変わらへんし
それはそれで嬉しかったけど、なんや拍子抜けしてなあ・・・
まあ、避けられても悲しいもんやけど
ち〜っとも意識してくれへんのもな・・・
『うち、男としてどうなん?』とか思ったり」

はあ〜と大袈裟にため息をつきながらの
夕霧の思わぬ告白に、真っ赤になった千尋は今度こそ驚きの声をあげた。

「ちょっと待って!
男としてって・・・夕霧ってば、そんなこと考えてたの?
だって、夕霧もずっと態度が変わらなかったじゃない。
そもそも、いつも女装していたし・・・
だから私もいつもどおりで何も変わることないって思ってた。
それが普通なんだって・・・ずっと思ってた・・・けど」

(もしかして・・・違った・・・の?)

戸惑いながら千尋がちらりと見上げると、ドキリとするほど
夕霧は今までになく妖しい笑みを浮かべていた。

「へ〜え?千尋ちゃんたら、そんなこと言うの?
じゃあ、うちが初めからちゃんと男はんの格好してたら、よかったんやね?」
「え!?そ、それは・・・」

どう・・・だろう?
夕霧が本来の姿で自分とつきあっていたら
今と同じようなつきあいはできただろうか。
こんなに近くで顔を突き合わせることが出来ただろうか。
そもそも、夕霧に何でも・・・話せた?

夕霧は夕霧だけど・・・

(・・ダメだ。わからない・・・)

言葉に窮する千尋を眺め、夕霧は軽く息をつき
視線を落とすと「堪忍な、千尋ちゃん」と謝った。

「え?」
「うち、つい調子にのって・・・いらんこと言ってしもたみたい」
「夕霧・・・?」
「・・・ホンマ言うとな。うちも趣味でこんな格好してるわけやないんよ。
公にも私ごとにも都合がよかったのは本当やけど
別に男やって隠さんでもええことやったし。
せやから途中で姿を変えることも出来たと思うんやけど・・・
でもなあ、千尋ちゃんと仲良うなるたびに、やっぱりこのままのほうがええかもなって、思ったんよ」
「・・・どうして?」

千尋が不思議そうに顔をあげると、夕霧は困ったように微笑んだ。

「女同士やと思うからこそ、近くまで寄れる。せやけど・・・それ以上は無理や。
・・・無理やとうちが判断したんやな。
せやから――うちがこのまま女の振りでいることが、うちの枷になると思ったんよ。
・・・うちが本気になってしもたら、千尋ちゃんは困るやろうし」
「本気って・・・」
「・・・大陸に連れて行きたいって言うたら・・・千尋ちゃん、困らへん?」
「!?」

驚きに声を失う千尋とは反対に
自分を見つめる夕霧の眼差しは
どこまでも優しくて深くて――千尋は胸が痛くなった。

「・・・な〜んて。いややわあ、そんな顔せんといてえな。
あ〜もう、ホンマに千尋ちゃんはええ子やなあ・・・」

言いながら、夕霧が千尋の頬を優しく触れた。

「千尋ちゃんはこの豊葦原の女王様やもんね。
ここから離れることなんてきっとできへん。
せやから・・・ね。
うちは最後まで千尋ちゃんの仲のええ友達でおりたかったから
このままお別れしよと思ったんよ」

だから、こっそりと帰国しようと思ったのに。

そう言われて、千尋は今更ながら気がついた。
夕霧は思っていたよりもずっとずっと大人の人だった。
綺麗なだけでなく、懐が大きくて、頼りがいがあって。
海の向こうの異国からはるばるこの豊葦原を旅してきた人だというのもうなづける。
こんな素敵な人に、ここまで言われて
それでも自分は応えられない。
自分には負うものが多すぎる。
それを夕霧はわかっていて。
だからこんなにも・・・優しい。

千尋の瞳から涙がこぼれる。
それを夕霧の指がそっと受け止めた。

「泣かせるつもりはなかったんやけど、堪忍な・・・」

千尋は首を振る。

「・・・私、夕霧のこと、忘れないから・・・」
「うちもや・・・ずっと覚えてますえ。
千尋ちゃんの可愛い笑顔も、その泣き顔も。
忘れそうになったらまたこの国へ渡ってきて、千尋ちゃんを見にきますえ」
「ホントに・・・?」
「ホントや・・・って言いたいとこなんやけど、うちもしがない宮仕えやしなあ・・・
せやけど、できるだけ千尋ちゃんのために努力しますえ」

その言葉に、思わず千尋は涙をこぼしながらも笑い出す。
「もう・・・夕霧ったら・・・正直ね」

「ああ、やっぱり千尋ちゃんは笑った顔のほうがええなあ」
言いながら、夕霧はじっと千尋の瞳を見つめた。

「な、最後に千尋ちゃんをぎゅっとしてもええ?」
「うん・・・」

千尋が赤くなりながら頷くと、夕霧は壊れ物を扱うように
そっと千尋の肩を抱いて引き寄せた。

瞬間、夕霧の衣からフワリと焚きしめた香の匂いがして。

(これは異国の・・・香り・・・?)

瞳を閉じながらそんなことを思う千尋の耳元に
夕霧の言葉がそっと低く響いた。



「千尋・・・ありがとう。
今度会うまで、もっともっといい女におなり。
私が追いかけてしまうぐらいのいい女に・・・ね」


国も、身分も、忠誠も・・・

みんな乗り越えて、それでも手を伸ばしたいと思うような
そんな素敵な女性になりなさい。
千尋・・・君なら出来るから・・・

それが、夕霧の千尋への手向けの言葉だった。
















そうして数日後、夕霧は故国を目指し、豊葦原を後にした。




―振り返らずに、ただ。
遠い異国の香りを残して――




2011.8.9UP