〜恋を描く者〜



「君の絵を・・・描いていいだろうか?」

シーヴァスからそう言われた時、
アンジェは特に驚くことはなかった。
むしろ嬉しくて、二つ返事で承諾した。

「ええ、いいですよ。でも、どうすればいいのですか?」
「何も」
「何も?」
「そう。君が私の前にいてくれさえいれば」

その言葉にアンジェは微笑んで答えた。

「では、いつでもどうぞv」

以来、シーヴァスは公務の間をぬって、
アンジェを描き始めたのだった。




        ◇      ◇     ◇




そして−
絵を書く時間は二人だけの時間となった。


「シーヴァスはいつ絵を習ったのですか?」

シーヴァスが手を動かし始めると、すぐにアンジェは質問を開始した。
好奇心旺盛なもと天使のこの反応は、今に始まったことではないので、
シーヴァスは苦笑しながらも、アンジェに答える。

「習ってなんかいないさ」
「では、お父様に習ったわけではないのですか?」
「ああ・・・。父は根っからの画家だったからな。
自分の絵ばかり描いて、子供に教えようという気はなかったらしい。
ただ、よその父親よりも家にいる時間が多かったせいか、私はよく父が絵を描くのをそばで見ていた。つまりは『見よう見まね』という奴さ」

そう言って、シーヴァスは一度言葉を切った。

「もっとも、筆を握るのは久しぶりだがな。
祖父の家にひきとられてからは、祖父の前では決して筆をとることがなかったし。
祖父が死んで独立してからは・・・まあ、描きたい対象もなかったからな」

その言葉に、アンジェは「ああ・・・」と思った。
シーヴァスの父親と、おじいさまにあたられる方の確執を、
ずっと以前に話に聞いていたからだ。

そう、あれはタンブールの教会の絵を見つめていた時のこと・・・




シーヴァスの母親は貴族の娘で、画家の父親とかけおちをしたという。
その後二人は『ヨーストの大火』にて命を落としたが、祖父は
「娘が死んだのは、娘を奪っていった男のせいだ」
と思い込み、男の描いた絵を執念深く探し出し、
すべて焼き払ってしまったのだという。
それほど、祖父は男を、シーヴァスの父を憎んでいたのだ。


その話を初めて聞いたとき、
シーヴァスの少年時代を思って心が痛んだことを、
アンジェは今でも忘れていない。


大貴族の娘がどうやって貧乏画家の男性と出会ったのか分からない。
貴族が肖像画を描かせるために邸に招いて、知り合ったのかもしれないし、あるいは娘がお忍びで出かけた先で、偶然出会ったのかもしれない。
いずれにせよ、彼らは出会い、そして惹かれ合うようになった。
けれど、身分も地位も違いすぎる二人は周りに祝福されるはずもなく、娘は父親の反対を押し切って、家も地位も捨てた。
慣れない生活でおそらく娘は苦労したことだろう。
しかし、不幸ではなかったと思いたい。
時折家を想っては寂しく感じることもあったかもしれないが、
自分が選び愛した人と、その子供に囲まれ、
穏やかな生活を送っただろうから。


そんな二人の間に生まれた子供もまた、
自らを不幸な境遇だとは思わなかったに違いない。
そうでなければ、両親が亡くなった後も、父の描いた絵を、
母を描いた絵を何度も見に行くことはなかっただろうから。


しかし、あの『ヨーストの大火』によって、
子供の・・・シーヴァスの生活は一転する。
両親と温かな家庭を一度に失った彼は、
心に大きな傷を負ったことだろう。

そんな彼を引き取ったのが、祖父にあたる人だった。
本来ならば、その祖父はシーヴァスを愛娘の血を引く唯一の孫として、限りない愛情をそそいだことだろう。
だが、同時にその孫は愛娘を奪った憎い男の血も引いていた。
だからこそ、複雑な思いでシーヴァスを見ていた。
おそらく、幼いシーヴァスは祖父から愛情と憎しみの両方を
その身に受けてきたに違いない。
しかも、今まで市井で自由きままに生活していた子供が、
いきなり大貴族の館に引き取られて平穏無事に過ごしていたとは思えない。
貴族としての礼儀や作法はもちろんのこと、フォルクガングの家名を継ぐに相応しい人格を、シーヴァスは否応なしに求められたと思うのだ。
そして、その祖父はシーヴァスの前で、ことあるごとに父親の名前を辱めたことだろう。

「お前の父親が、私の娘を殺したのだ」
「いいか、シーヴァス。お前はあんなろくでなしになるのではないぞ」
・・・と。

だからこそ、彼は立派な騎士として誰からも後ろ指を指されないように励まなくてはならなかった。
決して弱音を吐くことができなかったのではないだろうか・・・

もっとも、シーヴァス自身はそのことを否定したかもしれない。
なぜ自分が遠方にある母親の絵を繰り返し見に行ってしまうのか、
それすらも無意識であったのだから・・・








「アンジェ?」

ふと声をかけられ、アンジェは我に返った。
どうやら自分は彼の過去に捕われていたらしい。

「疲れたのか?すまない、少し休もうか」

気遣うシーヴァスの言葉に、アンジェは首を振った。

「いいえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしていただけで・・・」
「考え事?」
「ええ、シーヴァスのお母様のこととか・・・おじい様のこととか
・・・シーヴァスのこととか」

相変わらず嘘のつけないアンジェは、素直に言った。

今までの彼であったなら即座に
「ふん、つまらないことを・・・」
そう言って切り捨てたことだろう。
けれど、今のシーヴァスは虚勢を張ることはしなかった。

ただ、アンジェを見つめて

「・・・・そうか」

と答えただけだった。









「おじい様・・・か」
「?」

しばらくして、シーヴァスは筆を置きながらつぶやいた。

「いや、不謹慎かもしれないが、
正直祖父と君が出会わなくてよかったと思ってな」
「なぜです?」

アンジェは首をかしげる。
その可憐な姿に目を細めながら、シーヴァスは一息ついた。

「貧乏画家であった父と母との仲を絶対に認めなかった祖父だ。
元は天使といえど、人間界ではなんの身寄りも身分もない君を、祖父が快く思うはずがない。
そうだな・・・。もし君に出会わなかったら・・・そして祖父が生きていたら・・・おそらく私はどこかの好きでもない貴族の娘と一緒にさせられていただろうさ」
「!?」

シーヴァスは自嘲気味に言った。

「そして、私はそれに逆らうことは許されなかっただろう。
以前の私は、結婚相手などどうでもよかったし。
それに祖父には育ててもらった恩があったからな。
・・・だが、私は君に出会った。そして変わった。
もちろん、祖父が生きていたとしても、私は君を手放したりはしない。
そうなれば、祖父との確執はますます深くなったことだろう」
「そうですか・・・・・・・。
でも・・・私は一度シーヴァスのおじい様にきちんとご挨拶したかったと思いますよ」

しみじみとしたアンジェのその無邪気な答えに、
シーヴァスはフと笑う。

「君は優しいからな。
だが、そうだな・・・。君なら祖父とうまくやっていけたかもしれないな。
なんといっても、もとは天使さまなのだから。
きっと祖父の氷のような心も溶かしてくれただろう・・・
私の心がそうであったように」
「シーヴァス・・・」



アンジェの視線をとらえ、
ふとシーヴァスは首を振った。

「ふ・・・やはり君の絵を描くのは私だけの特権だな」
「え?」
「いや、実は執事がな。君の肖像画を描きたいと言ったら、有名画家を呼ぶのが一番とか言って聞かなかったのだが、私は反対したんだ」
「どうしてです??」

アンジェが不思議そうに問うと、
シーヴァスはアンジェの元に歩み寄り、その手をとった。


「決まってる。
モデルと画家が恋に落ちると困るからな」

















「私以外の男をそんな切なげな目で見つめないで欲しい」


そう囁きながら
シーヴァスは天使の唇にそっと触れた。
















かつて・・・


大貴族の娘と一介の貧乏画家との出会いは分からない。


けれど。




モデルと画家と。


その限られた空間の中で、
確かに育まれる想いがそこにあったのだと

アンジェを抱きしめながら
シーヴァスは今、思うのだった。





FIN